Education

手塚グループの考え方

手塚グループの稽古・教育に対する考え方です。

空手を手段として人間教育、特に青少年教育に重きをおき体を通じて心の成長を促します。

極真空手は、空手としての身体的訓練や技の鍛錬を怠ることなく、且つまた常に探求をやめることなく、実践空手として日々鍛錬を行っています。
また、身体的訓練以上に道場はもとより家庭や社会生活の中で心の修行を実践します。
若者が「強さ」を求めるのは当然のこととして、その「強さ」を越え、その向こう側に到達できるよう指導しています。

家族愛に満ちた豊かな人間性を培う

家族愛に満ちた豊かな人間性を培い、確かな空手の技術を身につけ、自律的に生き、信頼関係を構築できる力を備えた道場生の育成をします。

○家族の愛情を大切にし、思いやりにあふれる道場生育成
○夢や希望の実現に向かって、絶えず対話を欠かさない道場生育成
○節度と規律ある生活を送り、自然を愛する道場生育成
○家族との良き連帯をはかり、家庭・道場一体となった教育指導
○確かな空手の技術力の育成を目指した昇級指導
○護身やいじめ対策など社会生活に生かされる実践空手の指導
○道場生が明るく、生き生きと稽古ができることを目指した安全で潤いのある道場環境
○地域に根ざし地域社会に貢献できる道場

国際交流を通じて、幅広い価値観や視野を持たせる。

極真空手には多くの海外支部道場があり、特に青少年の国際交流を推進しています。より年少時から、様々な国や民族、価値観に触れることにより、語学の必要性を認識させ、視野の広い大きな認識を持った青少年が育つことを意図しています。
観光とは違い、同じ極真空手を学ぶ者同士の交流は、より深いものになりますし、また語学留学やホームステイとは違い、短期間でより多くの国際交流を持つことができます。

厳しい稽古とより深くわかりやすい言葉による指導

空手を含む武道教育でよく誤解されやすいのが、ある一定の限界を超えて厳しい稽古をすることで、おのずと精神力が高まるという考え方です。
厳しい稽古や形式上の礼儀作法を教えても、それだけで精神的な成長は望めません。むしろ中途半端な指導では、身体的に強さのみをめざし大会などで勝つことが目的となってしまい、かえって心を損なう可能性があります。
優勝できたのは精神的に向上できたからという人も見受けますが、それは栄誉などを得るための執念が強くなっただけかもしれません。

よく負けた生徒に対して「この悔しさを忘れるな。次は必ず勝て」と指導している先生を見かけますが、「悔しさ」という感情は、教えなくても一般的には誰もがもっている感情であり、「悔しさ」は基本的に「相手をたたきのめす」「相手をやっつける」など、破壊へ向かいやすい、むしろ幼い心であります。
本来はその「悔しさ」を越えて「素直に相手をたたえる」などの創造的な心を指導すべきでしょう。
もし「悔しさ」を指導するならば、負けた事では無く、例えば「礼節を守れなかった」「冷静さを保てなかった」など自己の未熟に対するものでなければなりません。

指導者自身の生きざまやそれに伴う、より深くわかりやすい言葉が道場生の精神的成長には欠かせません。「この先生のように自分も生きたい。」とあこがれる事もその第一歩です。
また、空手の実践の場が大会とすれば、心は家庭や社会の場で実践してこその成長ですから、その点にも留意した指導をしています。

社会生活に通じる実践空手

空手の稽古を通じて、どれだけ自分の技や力がついたのかを試すところが大会です。
また、それ以上に、礼節や相手を思いやる心が成長できたかも、ぎりぎりの勝敗を決する中で確認できるでしょう。
勝利が目的ではいけませんが、勝利に対して努力しない事も問題です。
日頃、勝利に対して惜しまない努力を重ね、全身全霊をもって戦い、その結果としての勝敗にはとらわれない事が寛容です。努力しなければ、結果にはもともと、とらわれません。努力してこそ結果へのこだわりがあり、そのこだわりを捨ててこそ修行といえます。

したがって極真空手は、大会を重視しますし、勝つための努力を徹底しますし、勝者に対する評価もします。
勝敗そのものを否定してしまえば、それはゲームのような仮想空間になってしまい、社会には全く通用しないものとなってしまいます。

それは、その次にくる本当の戦い、勝つことによる優越感、負けた事や補欠だった事による劣等感などの自己との戦いに必要だからです。勝者と敗者、選抜選手と補欠選手、ケガなどの諸事情、誤審に感じる判定、周囲の声などと、どう関わって価値を創出できるのか。
結果自体が大切なのではなく、結果の後の姿勢にこそ価値があります。
それが本当の試合であり、実際の社会生活に通じる空手となります。

「強さ」を極める武道としての空手

故大山総裁が追求したものが「地上最強の空手」である以上、その強さを極めなければ空手とはいえません。
良いものは良いとして、他流派でも異種競技でも取り入れるべきは取り入れて発展することが極真の精神です。
それを実践されたのが大山総裁ご自身でしたし、また多くの弟子の方々が「最強」を求めて様々な流派を立ち上げた事も極真の精神といえます。

道場や大会でいくら強くとも、社会生活の中では不意に襲われたり、集団に囲まれたり、狭いところで押し込められたり無数のシチュエーションが存在します。その中で対処できなければ「最強」といっても絵に描いた餅となってしまいます。

また、それ以上に、なぜ強くならなければならないかといえば、それは義を守るためであり、道理を通すためです。また家族を守るためであり、弱い立場の人や自然を助けるためです。

父兄の方から、自分の子供がいじめに合わないように注意していたら、いじめの加害者になってしまったということは良く聞きます。それは義を守る心の強さと誘いを排除できる身体的強さが乏しいからです。
そのため、極真空手は、あくまでも最強の空手として「強さ」を追求し続けます。

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