Kyokushinkaikan Tezuka Group

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Edukacja człowieka poprzez Kyokushin Karate

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Szczególny nacisk na edukację młodzieży

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Trenuj zarówno ciało, jak i umysł

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2025 - 4. Mistrzostwa Świata Karate Kyokushin Tezuka Cup.

Tegoroczne zawody zostały podzielone na trzy klasy - Challenge Class, Standard Class i Championship Class - według "stopnia i wagi", dzięki czemu nawet początkujący mogą wziąć w nich udział.
Ponadto pracujemy nad inicjatywami, które pozwolą nam określić najpotężniejsze z nich.
Zawody odbędą się w dwóch miejscach na wschodzie i zachodzie (Miyagi i Fukuoka), dzięki czemu będą mogli wziąć w nich udział zawodnicy z całego kraju.

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Filmy na YouTube są przesyłane co tydzień. Głównymi autorami są prezes Yoshimichi Mori, sekretarz generalny Sugihara i dyrektor generalny Tokyo.
Kurs obejmie szeroki zakres tematów, od podstaw Kyokushin Karate po instrukcje umysłu i podstawy ćwiczeń i ruchu.

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BLOG & Message
ブログ&メッセージ

Czym jest kształcenie charakteru! Rozwijanie ludzi jako osób z charakterem jest ważniejsze niż doskonalenie ich umiejętności

Czym jest kształcenie charakteru! Rozwijanie ludzi jako osób z charakterem jest ważniejsze niż doskonalenie ich umiejętności

子どもを教育育成するう上で大切なことは、スキルアップのための技術習得、能力向上よりも人格者として育成することです。 ...
なぜ勝敗にこだわってはいけないか?

なぜ勝敗にこだわってはいけないか?

空手大会が開催されました 空手大会が開催され各学年ごとに分かれ、審判も子供たちが自ら行い自主性にあふれたよい大会になりました。 勝つための努力は惜しまず勝敗にはこだわりません。(道場訓) 武道の試合ですので勝敗の結果以上に礼節を重視した大会です。 礼を欠く行為は即減点となり場合によっては勝敗がひっくりかえります。 結果ではなく結果後の姿勢にこそ価値があることを知ります。(道場訓) 礼に始まり礼に終わる事はもちろん、試合中の姿勢、終了後の姿勢まで主審は判定します。 審判は3人制ですが主審も副審も子供自身です。今まで学んだことの全てを駆使して判定します。 場合によってはおかしな判定が出ることもあります。 しかし誰一人として審判にクレームを言ったり、不満を見せたりする子供はいませんでした。 なぜ勝敗にこだわってはいけないか? 精神的なことは必ずフィジカルに影響します。 勝敗など結果に対して「絶対に勝つ」「負けられない」などと、とらわれてしまうと人は緊張します。 緊張は必ず「力み」となります。 スポーツにとどまらず、書や絵画などの芸術分野を含めあらゆるシーンにおいて「力み」は禁物です。 力むと関節は固まり動きが制限されます。 力は波ですから、固まったところで力は止まってしまいます。そのため、体全体の力は使えず部分的なところの力のみになってしまいパフォーマンスが上がらないのです。 緊張と力みはセットで癖になりますので、繰り返していると何かをするさいに力まずにはできなくなってしまいます。 この癖がありますと、重いものを持ったときなどに癖で力むので、力が体全体に分散せず肩・腰・膝などに重さが集中して痛めてしまいます。 そのため関節は常に緩んだ状態を維持しなければパフォーマンスが上がらず、怪我しやすい状態になってしまいます。 力まず多関節運動で細やかになる 今一つ力んではいけない理由があります。 関節が固まることで、動作に参加する関節の数が減ってしまうからです。 関節は基本的に回転運動(ヒンジ運動)をします。 そのため一つの関節では直線を描けません。手首や肘だけでまっすぐな線を引けないのです。 武道では相手をまっすぐに押す練習から、書道ではまっすぐな線を書くことから稽古すると良いと言われます。 直線は回転する関節がいくつも連動し見事に協調して実現する奇跡的な出来事です。 簡単に言えば体全体が協調しなければ一本の直線が描けないのです。直線動作は小手先で行わず体全体を連動させる稽古になるわけです。 この力まない事による多関節運動は細やかな動作を可能とし、運動、芸術、工作などあらゆるシーンで必須となります。 そのため結果を含め何事にもとらわれずに、心静かに緩みの体(自然体)であることが才能を開花する大切な条件となるのです。 ...
日本と世界を股にかけ、極真空手の宣教師として人生を送れたことに感謝

日本と世界を股にかけ、極真空手の宣教師として人生を送れたことに感謝

私自身の愛情の中で消化 私の不快感は、対人関係で生まれるのですが、それだからといって、復讐心を持つという事はしないのです。 どちらかというならば、その人の成長を願うばかりになるというのが偽らざる心境なのです。 行き詰って対立しようものならば、私自身の愛情の中で消化するのです。 ある人の話を聞いていると、自慢げに語る内容は、「便所の汚水を美味しい」と飲料しているかのようなのです。 もちろん、パワハラもあり、人のプライドを傷つけるという事を平気でするのです。 その人を観察すると「不義をもって真理の働きを妨げる人間」になっているように映るのです。結果を押さえつけているようです。それだけに彼は疲れているようです。 人は最高傑作作品 さて、多くの人に対して、どのように私は対処するかというならば、人は最高傑作作品に創造されているという事として最大限敬意を払うのです。 人の素晴らしさを感じて、長所を発見する努力をするのです。 人間には、相手の素晴らしさを認識する能力があるという事です。 また、人は無限な力があると確信して接するのです。 もし、それを押さえつけて自分勝手に取り扱うとするならば、意図的にロボットのように操作するという事に等しくなるのです。 それはまさに、人が勝手に人を裁くことができるという事に等しくなるのです。 もしそのように私が振舞うとするならば、人の素晴らしさを知っていながら、意図的に淪落のステップを踏み下っていくのです。 ところで、私は、極真の道を歩み続けることができるという事に感謝しているのです。 というのも、生命と祝福の源泉のように、自らの肉体と精神を自由意志でコントロールすることができているのです。 豊かな人格の触れ合いに感極まる それによって、真っすぐに純粋に歩めるような道を究めることができているのです。 この道を究めるという事で、自己中心になることが少ないのです。また、空しい思いにふけることはないのです。 日々心身を鍛えているので、すべての事で理解力が研ぎ澄まされ、何事に関しても論じる力が増し加わってくるのです。 それだから、大山総裁を尊敬すると同時に、指導を受けたことに感謝しているのです。 また、手塚会長とは、毎日のように話すことができ、豊かな人格の触れ合いに感極まることもできたのです。 極真に出会わなければ 結論として、極真に出会わないで、人生を閉じるようなことがあるならば、どうであったかと問い直すのです。 人生を棒に振っていたのではないかと思うのです。 究極、滅びていたかもしれないのです。 たとえ道徳的だとしても勝手に生きていたとするならば、意図的に自分の人生を押さえつけていたかもしれないのです。 不思議に、人は導きで天命を与えられるものです。極真という道を示され、更なる啓示のように人生の行くべき方向まで与えられたという事であると思っているのです。 私の使命感を感じる背後に、正しい道が備えられていたという事と思えてならないのです。 日本と世界を股にかけ、極真空手の宣教師として人生を送れたことに感謝しかないという事です。 ...
単に限界を超えて厳しい稽古をしても精神力が高まらない?

単に限界を超えて厳しい稽古をしても精神力が高まらない?

青少年教育の中でも特に重要な事は「心の成長」です。 もちろん武道である以上様々な身体的技術も稽古し身につける必要がありますが、心の成長が伴わなければ身につけた技術はたんなる凶器ですし、何を身につけても自分の人生には生かせません。 武道教育での誤解 武道教育でよく誤解されやすいのが、ある一定の限界を超えて厳しい稽古をするば、おのずと精神力が高まるという考え方です。 道場での「厳しい稽古」や「形式上の礼儀作法」を教えても、それだけで精神的な成長は望めるほど簡単なものではありません。 むしろ中途半端な指導では、身体的・技術的な強さのみを追求し、安易に大会などで勝つことが目的となってしまい、かえって心を損なう可能性があります。 優勝できたのは精神的に向上できたからという人も見受けますが、それは栄誉などを得るための執念が強くなっただけかもしれません。 悔しさという感情は成長ではない 武道に関わらず何らかの競技で負けた生徒に対して「この悔しさを忘れるな。次は必ず勝て」と指導している先生をよく見かけます。 「悔しさ」という感情は、教えなくても一般的には誰もがもっている感情であり、「悔しさ」は基本的に「相手をたたきのめす」「相手をやっつける」など、破壊へ向かいやすい、むしろ幼い心です。 本来はその「悔しさ」を越えて「素直に相手をたたえる」などの創造的な心を指導すべきでしょう。 もし「悔しさ」を指導するならば、負けた事では無く、例えば「礼節を守れなかった」「冷静さを保てなかった」など自己の未熟に対するものでなければなりません。 心の成長とは 本当の「心の成長」には、指導者自身の生きざまやそれに伴う、より深くわかりやすい言葉が道場生の精神的成長には欠かせません。 「この先生のように自分も生きたい。」とあこがれる事もその第一歩です。 また、武術の実践の場が大会とすれば、心は家庭や社会の場で実践してこその成長ですから、その点にも留意した指導をする必要があります。 道場では、様々な言葉やその言葉を語った人の人生を学ぶ事で「心の成長」の基盤としています。 家庭での愛情にはぐくまれ、良き師を通じてその生き様と言葉を学び、自分との関わり、人との関わり、自然や社会との関わりを通じて心の成長が可能となります。 ...
極真の門を叩いた理由は、倫理観をベースに正しい生き方を選択しようとしたもの

極真の門を叩いた理由は、倫理観をベースに正しい生き方を選択しようとしたもの

私が中学生の時、柔道部に所属したのでした。 当時、勉学に励むよりは柔道に熱心に取り組んだのです。 理由は、新聞配達をして家の家計を支えていたのです。 朝起きて寝床から起きると、とんでもない現象が起こっていたのです。 性の目覚めという事を突き止めるまでさほど時間は掛からなかったのです。 図書館でこの事は何であるかという事を医学事典で調べたものでした。 この時、体の欲望のままに汚れに引き渡され、はずかしめるようになってはいけないという自覚をしたのでした。 肉体を疲れさせるという理由から、柔道に打ち込んだという事になったのです。 高校に入学すると、幼なじみの女の子に対しても、正常な気持ちではなくなり、自然に距離を置くようになったのでした。 理由は、不潔な着物を着ているようにさえ思ったからです。それで、性の性質に虜にされるか、脱却して新しい世界を見出すかという事を自問自答したのでした。読んだ書籍の中で、ユダヤ人は生後八日目で陽部を切って割礼をするというのです。 要するに二者選択の中で、性からの脱却という事で、ユダヤ人のように陽部を切るという事ではなく、極真で血を流す理由で、門を叩いたのでした。 ユダヤ人は、一回の割礼という事ですが、私の場合、道場の組手で、全身が割礼状態になって、肉体の痛みゆえに、心の神聖さを保ったという事の結果を導き出したのでした。 ところが、極真の門を叩いてからも、恥ずべき情欲が日々迫ってくるのでした。二十四歳になると、今の妻と婚約したものですから、なおさら、自分の人格を疑われないように努力に努力を重ねて、稽古に熱中していったのです。 結果的に結婚までの十年の歳月、自問自答して、納得がいく人格を見出す為に時を過ごしたことになったのです。要するに、正しからぬ思いを払拭する日々だったのです。無価値な思いに引き渡されないように、全日本のオープントーナメント目指し、アスリートとしての道を重ねていったのです。 一日数時間、それを三百六十五日、それを全日本の試合三分に全てをかけるという鍛錬を三十四歳まで続けていったのでした。 極真の門を叩いた理由は、親から教えられた倫理観をベースに、正しい生き方を選択しようとしたのです。 真実な生き方を偽りには代えてはならないという気合で、稽古にのめり込んでいったのでした。決して正しい道の選択を放棄しようとは思わなかったのです。 正しい生き方は、自然界を見ると一目瞭然で、自然の森羅万象から多くのヒントが与えられるものです。それだけでなく、人類の遺産ともいえる書籍からも多くを学ぶことができました。 その結実を極真という稽古で消化してきたというのが偽らざる人生でした。 人は罪の性質に仕えるように、放置されているように思うのです。それだけに、罪と戦ってきた人生でもあると思っているのです。 性から解放の方法は、問題の本質を知り、新生可能な状態に日々訓練することだと思うのです。 ...
心の美しさは真理を求め美徳を追求することが人生道へと通じるもの

心の美しさは真理を求め美徳を追求することが人生道へと通じるもの

心の美しさ 人の道は、勝敗優劣を越えた美徳を追求(喜び)するものです。 現代社会の中で、「競争に勝つこと=幸福」の価値観が蔓延し勝つためのスキルアップが目標のメインになりがちです。 人間の自然体は決してそうではありません。 運命を受け入れた覚悟の美しさ 無欲の学びから生まれる志の美しさ 一切を受け流し滞らない気の流れの美しさ 未来への願いがあふれる思考の美しさ 身体を支配せず、身体から学び生かす人格の美しさ 自分を生かす立ち居振る舞いの美しさ 自分を優先しない姿勢の美しさ 他を尊重する言葉の美しさ 見返りを求めない愛情の美しさ 尊敬心をもって繋がる広がりの美しさ 家族や友人、人に対する関わり合いの美しさ 自然やものに対するあつかいの美しさ 勝敗は一時の優劣の刺激であり、こだわるものではありません。 どんなに他者の評価による栄光にあふれ、その能力がいかに優れていても、優劣闘争からは美しさを見出すことはできません。 真理を求め美徳を追求することが人生道へと通じるものである。 それこそが日々稽古することへの礎となる。 教育の目標は人格者を育てること。 学ぶ目的は人格者になること。 ...
極真で同じ志をもって日々稽古に励んでいれば、自然に尊敬の念に導かれる

極真で同じ志をもって日々稽古に励んでいれば、自然に尊敬の念に導かれる

人に対応するときには、見かけだけの対応や毒を含んでの試練に常に闘います。 そして、そのための私の姿勢は、できるだけ顔に出さないようにするという事です。 素晴らしい立場にある人が、突然変貌して、その人の悪意の価値観に引き込まれることがあります。 その時は、その人と自分との対比をみるのです。つくづく仮面を被っての彼の愛情表現は、不可能であると認識するのです。ただ私は笑みを浮かべるだけで、なるべく距離を取りたいと思うのです。 このような姿勢が私にできる基本原則であり、人生の要のように思っているのです。 私自身は、単純で正直なのでしょう。決して政治的な発想はできないようです。 さて、悪感情に対しては、できるだけ避けるという姿勢を取ります。何故ならば、ひどく嫌悪して拒絶するようになるのです。 同意をすることはできませんから、ただ笑顔を浮かべているだけです。 そのような人物に、価値観を麻痺させられないように努めるだけなのです。 決して私から嫌な顔をしないという努力と忍耐心を養おうとするわけです。 もちろん、寛容が相手に利用されることは百も承知なのです。 悪意に対して敏感でありますから、顔に表情として現れないように努力します。 そこは極真で鍛えた精神という事で乗り切ろうとするわけです。 ところで、そのような人とは、親しみ結ぶという事はしないのです。 親密な関係にならないようにするわけです。極真で培った精神は、私に何が善であるかの指導を、受け続けてきたのです。 もちろん、稽古で日々その精神は更新し続けてきているのです。逆に何を大切にするかというならば、密接に結び合う関係は、極真の仲間が最優先されるのが、私の姿勢です。当然、地域の人達や関係者がたくさんいますが、最優先するのは家族としての極真の仲間なのです。 それが私の優先順位なのです。仲間に関しては、私よりも優れていると率直に思えるのです。 指導者がスタッフに対して、私よりも実際に優れていると思えるのです。 心が通っているからなおさらなのです。 尊敬できる理由と、できない理由がありますが、極真で同じ志をもって日々稽古に励んでいれば、自然に尊敬の念に導かれます。 それだけに、武道精神に則って熱くなるので、道を外すことができないのです。また、それだけに、極真の道を押し進めていきたいのです。 実に確信に満ちた、信頼をこのグループに置いていることは間違いないのです。 今はコロナウイルスによって、世界中がかく乱されていますが、早く収集できるように願うばかりです。 このグループの仲間と共にあるならば、乗り越えることができると確信を持っているのです。 このような姿勢が、私の基本であり、要なのです。 ...
名前ゆえの喜び

名前ゆえの喜び

人生を振り返ることなく、世間の価値観、組織の縛りや強制に対しては、まったく気に留めることなく、我が道を行くという事で、平和に心落ち着けて過ごしてきたのです。この姿勢は過去においても事実であり、さらに将来を見つめているのです。また、私に直接かかわる人で不正や不義を見てきました。それで、あまりにも酷い事に関しては意見を述べたことはありましたが、基本的には「天の怒りに任せる」という姿勢を貫いているのです。直接火の粉が降りかからなければ、騒ぎ立てもしないのです。要するに心を平和に保つという事を優先しているという事です。 次に日々心得ていることは、極真空手へのアクセスをしているという事です。極真空手にあって、これが礎となって喜んで、義の道を追求するという姿勢へ繋がるのです。今まで極真へのアクセス権が与えられており、極真の道は私にとって、「オープン・ドア」の状態なのです。いかなる不安や試練も極真の道によって乗り越えてきているのです。それだけに、極真空手の生活は、実に恵まれてきたのです。いつもその姿勢で体験するものですから、不安や恐れはないのです。 また、極真空手ゆえに、栄光に預かっているのです。この道を誇りとしているのですから、携わっており、喜びに至るという事にもなるのです。このような体験から道場生に極真へのアクセスを指導するようになっているのです。それだけに、私は最高段位として、世界中の指導者に段位の継承を認める権威も与えられているという事でもあるのです。それは、極真の栄光を共に受けるという事であり、そのための稽古を共にするという事なのです。自分が栄光に預かるという事ではなく、極真の栄光の中に入っていくという事が的確かもしれません。 ところで、このような道に至ったという事は、名前ゆえであるという確信を持っているのです。私自身の内容はどうであれ、常に「義道」の冠を付けているという事で、心を引き締めているのです。それだけに、他の団体とは友好団体であり、大切にすることはあっても、命令となると従わないのです。あくまでも自発的に心を寄り添うという姿勢で大切にするのです。 結論として、私の位置的スタンスは、平和な心を保つという事です。人との平和ではなく、あくまでも極真の道での平和という事なのです。それだけに、稽古を貫いていくのです。また、極真へのアクセス権を与えられているという事で、パワー溢れる生き方ができるのです。真剣にこの道を歩むという事で、多くの恩恵を受けているのです。人生の第四コーナーを歩む者として、花道を常に歩んでいるという自覚をするのですから、これも名前ゆえであると思って喜んでいるのです。 ...
私の名のゆえの普遍性

私の名のゆえの普遍性

個人的な話が続いていますが、「誰にでも名前を持った人には言える」と思うので表現しているのです。私の場合、気が違ったと思われるぐらい、人生のほとんどの時間を極真空手に費やしてきました。今もそうであり、これからも極真空手は、継続しようとしているのです。というのも、私の目指した極真空手には力があったのです。それだけに魅了されてしまった人生なのです。修行中の私には、人生で困難や試練は数多くありました。それでも結果的に、極真空手で越えることができたのです。さらに、極真空手を取り巻くマスメデアの後押しも勇気づけられたのです。決定的なことは、池袋の総本部に通っていたときは、大山総裁から四年間、励まされたという事です。それだけに、全日本大会で活躍することもできたのでした。 さて、極真の稽古はフルコンタクトの武道ですから、全身に生傷で痛みを抱えた修行として、日々を過ごしたのです。人から見たならば、バカげたことのようであったのでしょう。私にとっては、希望だけしかなかったのです。希望が消え失せてしまうようであればあるほど、義の道を追及したという事でもありました。つまり、自分の名前を追及したという結果になったのです。極真の道を疑わないで信じたという事でした。この道を行くならば、約束されたものを獲得することができるという信念に満ち溢れていたのです。 ところで、両親がつけてくれた名前を見るたびに「義」とみなされているという確信を持ったのです。振り返れば極真で修行を重ねて五十年です。同じ人生を歩めるかというならば、振り返るだけでも難しいと思えるのです。それでも、大山総裁に起こったことは、私にも起こるという自信があったのだと思うのです。師を超えることはできなくても、近づけることができるという信念であったのです。結果、義を成就するための人生であり、義の承認が人生の終わりの時になされるという事でもあると思うのです。 結果的に、私の義道という名前は、銀行に預金していないのにもかかわらず、勝手に振り込まれていた貯金のようなものです。実際に親からの仕送りが二十年に及んだのも、愛情を注がれ続けてきたという事です。そして極真を信頼して、極真との約束を全うし、希望が絶望に変化しようが、それにめげることなく、疑わないで人生を歩み続けることができたという事が、今の私を築き上げているのです。まさに、私の主軸として貫いた武道としての極真空手が、多くの恵沢を与えてくれたのです。それだけに、熱中して生命を捧げて生きることができたという事なのです。 ...

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