故手塚暢会長追悼式への思い
Last Updated on 2018年1月2日 by Siège du groupe
手塚会長が一月五日の日に逝去されました。
会長は、執務室のパソコンの前で、ペンを取りながら容体が変化したのです。
奥様がすぐに救急車を呼んで対応されました。
その後、救急車の中で、意識がなくなり病院で、お亡くなりになったのです。
会長に、二十年前に、直接出会って、ご指導を受け続けました。
毎日電話て会話をしていました。
主催する大会は元より、審査会、合宿と様々な行事に、出席して頂きました。
それだけでなく、全国、全世界の巡回指導にあたったのです。
報告を埼玉の師範に受けてから、呆然とした状態になりました。
これから、今年の準備をする為に、昨年中は電話でやり取りをしていたのです。
喉にバルーンを入れて、訓練して、喉の通りを良くすると話していました。
また、気管と食道の調整がうまくいかないということで、胃瘻も頭の中にあるという事を念頭に置いてました。
もちろん、メールでのやり取りもしたのです。
そのお姿が、この世には、いらっしゃらないということになったのす。
悲しみが湧き上がりました。
会長の異変の連絡を受けたのが、地域の名士を囲んで、消防団を応援する新年会が開かれていた時でした。
胸騒ぎがありましたが、行事を優先して、家に帰ってから、連絡を取りました。
大変な事という事が、手塚会長の逝去という事でした。
もうその日は、眠れないのです。
それも、奥様がから、親族での葬儀を持ちたいという事で、道場関係者は、誰も参加はできないという事でした。
もう心は、二十年間もお世話になった恩師に、別れも言えないということになったのです。
気持ちは、複雑になりました。
亡くなったこともショックでしたが、別れの葬儀に参席できないということです。
「どうしよう、どうしよう」と心の中を自問自答するだけでした。
それだけではないのです。
現状の手塚グループを、どのようにして次の世代に残すかという事も去来しました。
それも、会長の願いの方向に一致して歩という事を考えたならば、もう眠る事が出来なくなったのです。
ただ、一人の個人が亡くなったのではなく、この団体を率いた総裁がが亡くなったのです。
当然、会長が逝去されたという事は、責任の全てが、私に掛かってくるという事です。
というのも、会長と共に、ロシアのカザンに出かけて、ロシアを開拓し、ポーランドに出かけて、ヨーロッパの基本的な組織を作り、アメリカに出かけて、手塚グループの版図を広げたのです。
もちろん、日本でも、宮城県本部の基盤拡大のために、会長と共に、尽力を尽くしたのです。それだけではないのです。秋田の開拓、福岡、広島、大阪、新潟、福井、東京三地区と千葉と大きな組織を作ってきたのです。
また、会長が目指す、手塚グループの理念と信念を積み重ねてきたのです。
その内容は、私のブログの中で、一言も漏らさずに、書き記してきたのです。
会長との電話の交流の中で、「会長語録」が飛び出るのです。
この二十年の間、人生の中心か極真会館手塚グループであり、その土台に、私達家族が生かされてきたのです。
子供達の成長も、極真空手と共にあったのです。
この二十年間は、会長と共に、一時代を築いてきたのです。
二人三脚での会長との歩みでした。
極真会館に於ける、日本と世界に関しては、私が奥さんのような立場であったのです。
会長の願いを吸収しならが、会長の伝統が息づく関係であったのです。
当たり前のように、手塚グループの中で、重要な立場であり、会長の役割を受け継いでいく、責任を全うする立場ででした。
会長との会話で、夢と理想がほとばしるのです。
会話は、いつも夢のような構想理想で満ちていました。
それを、一つ一つ、開拓したのです。
日本全国で、さらには、世界で活躍する版図を広げることによって、生きる喜びを、会長と共に感じていたのでした。
毎日のような電話のでの対話は、「夢道場」そのものなのです。
そして、武道を追求し、極真会館手塚グループを守り、伝統を発展させてきたのです。
そして、これから続くであろう後輩に対して、いくべき道を準備をしてきたのです。
手塚会長は、もう地上にいらっしゃらないのです。
だからと言って、歩みを止めるわけにはいかないのです。
会長の願いの立場に立ってこそ、これからも会長と共に歩んでいくということであると思うのです。
心からご冥福をお祈りいたします。
手塚グループ副会長(2017年3月現在) 森義道