名前ゆえの喜び
Ultimo aggiornamento il 9 giugno 2020 da Sede centrale del Gruppo
人生を振り返ることなく、世間の価値観、組織の縛りや強制に対しては、まったく気に留めることなく、我が道を行くという事で、平和に心落ち着けて過ごしてきたのです。この姿勢は過去においても事実であり、さらに将来を見つめているのです。また、私に直接かかわる人で不正や不義を見てきました。それで、あまりにも酷い事に関しては意見を述べたことはありましたが、基本的には「天の怒りに任せる」という姿勢を貫いているのです。直接火の粉が降りかからなければ、騒ぎ立てもしないのです。要するに心を平和に保つという事を優先しているという事です。
次に日々心得ていることは、極真空手へのアクセスをしているという事です。極真空手にあって、これが礎となって喜んで、義の道を追求するという姿勢へ繋がるのです。今まで極真へのアクセス権が与えられており、極真の道は私にとって、「オープン・ドア」の状態なのです。いかなる不安や試練も極真の道によって乗り越えてきているのです。それだけに、極真空手の生活は、実に恵まれてきたのです。いつもその姿勢で体験するものですから、不安や恐れはないのです。
また、極真空手ゆえに、栄光に預かっているのです。この道を誇りとしているのですから、携わっており、喜びに至るという事にもなるのです。このような体験から道場生に極真へのアクセスを指導するようになっているのです。それだけに、私は最高段位として、世界中の指導者に段位の継承を認める権威も与えられているという事でもあるのです。それは、極真の栄光を共に受けるという事であり、そのための稽古を共にするという事なのです。自分が栄光に預かるという事ではなく、極真の栄光の中に入っていくという事が的確かもしれません。
ところで、このような道に至ったという事は、名前ゆえであるという確信を持っているのです。私自身の内容はどうであれ、常に「義道」の冠を付けているという事で、心を引き締めているのです。それだけに、他の団体とは友好団体であり、大切にすることはあっても、命令となると従わないのです。あくまでも自発的に心を寄り添うという姿勢で大切にするのです。
結論として、私の位置的スタンスは、平和な心を保つという事です。人との平和ではなく、あくまでも極真の道での平和という事なのです。それだけに、稽古を貫いていくのです。また、極真へのアクセス権を与えられているという事で、パワー溢れる生き方ができるのです。真剣にこの道を歩むという事で、多くの恩恵を受けているのです。人生の第四コーナーを歩む者として、花道を常に歩んでいるという自覚をするのですから、これも名前ゆえであると思って喜んでいるのです。