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極真の起源

  • 極真空手の創始者、大山倍達(おおやま ますたつ)は1923年7月27日に誕生、生涯を空手道に捧げ、日本はもちろんの事、世界に数多くの弟子をもつに至りました。
  • 青年時代より、日本ではまだ草分けであったボディビルをはじめ、松濤館流や剛柔流空手、柔道、合気柔術、ボクシングなどに学び、枠にとらわれない最強武術をめざしました。
  • 戦後の混乱期の中で、身延山、清澄山での山籠もり修行をへて、肉体的強さのむこうに「拳禅一如」を悟り、極真空手を創始、1964年(昭和39年)国際空手道連盟 極真会館を設立しました。
  • 故大山総裁の座右の銘「千日を以って初心とし、万日を以って極みとす」が「極真」の言葉の由来です。

拳禅一如

  • 「不動智神妙録」は、江戸時代初期の禅僧・沢庵が柳生宗矩に「剣禅一如」を説いたものです。大山総裁は、この「剣禅一如」を志向して晩年を生きた宮本武蔵にならい、当時の「剣(武士)」を「拳(空手家)」に代えて「拳禅一如」を志しました。
  • 従来人間は、精神と肉体の複合体であり、双方の修行による一致(一如)があってこその人間完成になります。
  • 「拳」を極めようとすれば、攻守・剛柔・押引・強弱・速遅・直曲・高低・得意/不得意などの両側面が、
  • 「禅」を極めようとすれば、優劣・勝敗・禁欲/快楽・動静・積極/消極などの両側面がそれぞれ無数に現れます。
  • 真剣な修行を重ねることによって、両者は一つのものの両側面として自らの内に調和します。
  • 修行を怠れば、両者は対立するものとしかみえず、どちらか一方に傾斜し、自ずと破滅へ向かいます。
  • 積極性と消極性を例に考察してみましょう。
  • 安易にみれば積極的な人間が良くて、消極的な人間が悪いので、自己啓発して積極的になろうと考えます。
  • しかし、大切なのは積極性と消極性が自分の中でバランスを持つことです。
  • 積極性に傾けば、引くことのできない出しゃばりにしかならず、消極性に傾けば臆病にしかなりませんから、どちらに傾いても滅びるしかないのは自明です。
  • 両者が自分の中でバランスをとった時、積極性は自律的主体性として、消極性は慎重さや奥ゆかしさとして現れます。
  • 空手道においても引くべき時は引くという消極性は重要な要素であり、人生においてはむしろ引く方が難しい悟りです。
  • それでは「拳」と「禅」が互いを失った場合はどうなるでしょう。
  • 「禅」を失い「拳」に傾けば、欲を正当化し「強さ」「勝利」「栄誉」などが、安易な大衆からの賞賛も後押しして、当然の目標として正当化されます。勝っておごり負けて落ち込み、悔しさをバネに、一瞬の優越的刺激のために心血を注ぎます。勝敗が決した後の態度にその心がよく現れます。厳しい努力やつらい思いを重ねるほど、精神的にも向上しているよう感じでしまいますが、勝者と敗者が別の価値にみえている限り、本人は自覚していない場合は多いですが、その人物は争いしか生み出すことができません。
  • 「禅」は「拳」の厳しい修行の結果、おのずと悟れるほど浅いものではないことに留意する必要があります。
  • 「拳」を失い「禅」に傾けば、欲を否定してしまい争いごとを避けるようになります。自分を世俗から隔離することによって清さを保とうとするからです。
  • しかし、それば道場などの特定環境のなかでのみ通用する仮想にすぎず、家庭を持ち社会に生きる人間にとって無意味です。
  • 本当に「禅」を悟り身につけるためには、ぎりぎりの戦いの中で、こだわりを捨て不動心を保ってこその修行です。
  • 無心と無欲の境地を極め、一切のこだわりをすてる「禅」と、身体的強さを求め勝つために努力し、ひとつひとつにこだわり抜く「拳」が、一体の価値となったところに、「拳禅一如」があります。実際の生活においても同様です。
  • それ故に、「拳」と「禅」が一体となったところに人間完成の道があります。

極真空手とは

  • 極真空手は、「拳禅一如」を志向する空手としてのみ存在します。そして極真空手を納めた者とは、まさに「拳禅一如」を体現したものでなければなりません。
  • 極真空手は、あくまでも「拳」を極めた最強の空手として存在し、その強さを越え「禅」の完成を志向します。
  • さらに大切なのは空手という特殊空間だけでなく、むしろ家庭や社会生活のなかに「拳禅一如」を実現することであり、その人間を育てることが極真空手の使命です。
  • 家庭や社会生活のなかにある様々な両側面、一見矛盾しているようにみえるため、一方をとって一方を切り捨てたくなる時にこそ、全力で調和をはかり、新しい次元へ推し進められる人間こそが極真空手の求める人間像です。
  • 勝者と敗者、あるいは強者と弱者、正しい人と誤った人などの対峙しやすい両者が一つとなれば、「美しさ」という新しい価値がうみだされ、その喜びは滅びなくなります。
  • 武道や空手道など、「道」を伝える修行と、そうでない身体的練習との一線を画する部分です。
  • 「拳禅一如」とは、日常生活のなかで新しく滅びない価値を生み出すための生き方に他なりません。
  • まさに、修行とは一見対立するようにみえてしまう二つの側面を一つに結び、新しい価値へと押し上げることのできる人間として完成する道です。

※説明が十分でない部分や、難しい部分もあるかと思いますが筆者の力不足ですのでご容赦ください。(^^;)
各道場では、子供には子供にあった言葉で、大人には大人向きに、その人にあった言葉で伝えさせていただいております。各道場で、よりわかりやすく、より丁寧に教えさせていただいておりますので、道場に足を運んでいただき直接学んでいただければ幸いです。m(_ _)m

大山倍達総裁の言葉

  クリックしますと、各説明をみることができます。

頭は低く目は高く 口慎んで心広く 孝を原点とし他を益する

大山総裁が基軸に置かれていた最も極真精神を代表する言葉です。

頭は低く目は高く 

志(目は高く)は高く持ちつつも、常に謙虚(頭は低く)でなければならない。
人は、自分が崇高な道を歩んでいるとか、誰よりも努力しているとか、人のために犠牲を払っていると自覚する時ほど傲慢になりやすくなります。
常に他人を「先生」と思い、学ぶ姿勢を忘れてはいけません。
自分は何者であるのかをいつも己自身で見つめ、その正体を己自身で知らなければ謙虚にはなれません。
己自身の正体が分かっていれば、他人の評価があっても傲慢になりませんし、批判されても卑屈になりません。
他人の評価や自分の実績は、参考にすれども自分の評価に直結してはいけません。そうでなければ、いつも傲慢と卑屈のいったり来たりです。
志を高く持つことと、謙虚になることは、どちらも難しいですが両者を兼ね備える事はなお難しく、人生の日常を通しての積み重ねた修行が必要でしょう。

口慎んで心広く

大言壮語や安請け合い、取り繕いやいいわけなど、「口」ほど罪を重ねた部位はないほどに、私たちはひどい使い方をしています。
裏を返せば「口」ほど喜びや幸せをつくる力を持ったものもないでしょう。
ここでの「口謹んで」はしゃべるなという単純な理解というよりは、むしろ正しく美しく「口」をつかえと解釈する方が良いでしょう。
そして当然のことですが、言葉以上に、その背景にある「心」が広くかつ深くあるべきでしょう。

孝を原点とし

人は人の見ている前では、人らしい振る舞いをしますが人が見ていない時、または、道徳的に問題でも法律違反でなければ粗暴になりがちです。
「考を原点とする」という事は、親孝行の「考」と狭く捉えるよりも、先祖代々の家系の誇り、民族の誇り、人間としての誇りと捉えるべきでしょう。
すなわち、人の見ていないところである「神仏」や「天」の前にどうあるべきか、または、どう生きているのか見つめ、生きる基軸にしなさいという意味になります。

他を益する

そして最後に「他を益する」とは、単純に自分以外の利益を優先しろ、他人のためにどこまでも犠牲となれと解釈してはいけません。
「拳禅一如」の説明でも触れましたが、一見相対する2つの事象、ここでいえば「他の利益」と「自分の利益」が対立するもの、すなわちどちらかしか選べないとみることが不幸への橋渡しとなってしまい、未熟といわざるを得ません。
釈尊も6年の苦行をへて悟られた事は、苦行(禁欲)だけでは人は幸せになれず、人の欲(快楽)も必要であるということです。
問題は、どちらか一方へ偏る事が問題であり、そこで、釈尊は「中道」といい、近い意味で孔子も「中庸」を教えました。
ただしここで「中道」といった場合、時間によって動いている世である以上、単純な並列ではなく、どちらが先で、そちらが後かも問題になります。
「他の利益」が先であり「自分の利益」が後にならなければ「中道」にはなりません。
この両者が自分の心とその行動において、互いに損なうことない関係として成立したとき、人も喜び自分も喜ぶ事のできる滅びない価値が生み出せます。
この価値に簡単に到達することはできませんが、そのためにこそ修行があるといえます。
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千日を以って初心とし、万日を以って極みとす

千日を以って初心とし、万日を以って極みとす

準備中.

正義なき力は暴力なり、力なき正義は無能なり

正義なき力は暴力なり、力なき正義は無能なり

準備中

我ことにおいて後悔せず

我ことにおいて後悔せず

準備中

我以外、皆師なり

我以外、皆師なり

準備中

何のために強くなるか?それは自分に打ち勝つためであり、義を通すためであり、人を導くためである

何のために強くなるか?それは自分に打ち勝つためであり、義を通すためであり、人を導くためである

準備中

道場訓

一、吾々は心身を練磨し確固不抜の心技を極めること

  • We will train our hearts and bodies for a firm and unshackling spirit.
  • 私達が空手を修行する目的は、自分自身の心と体を鍛えることにあり、真剣に稽古に打ち込むことで、どんなことにも動じない心と強い意志といったものを習得していかなければならない。

一、吾々は武の真髄を極め機に発し感に敏なること

  • We will pursue the true meaning of the martial way, so that in time our senses may be alert.
  • 私達は武道として空手の道を徹底的に追求していくことで、どんな状況にも臨機応変に対応する力と相手の心を理解する思いやりや優しさ、どんなことに素直に感動できる心を身につけなければならない。

一、吾々は質実剛健を以って克己の精神を涵養すること

  • With true vigor, we will seek to cultivate a spirit of self-denial.
  • 私達は自分を飾ることなく、真面目で素直に空手の修行に打ち込むことによって、自分自身に打ち勝つ強い心を養っていくことを心がけなければならない。

一、吾々は礼節を重んじ長上を敬し粗暴の振舞いを慎むこと

  • We will observe the rules of courtesy, respect our superiors and refrain from violence.
  • 私達は礼儀を身につけ、目上の人を敬い、人前で空手の力を誇示するような行動をとってはならない。

一、吾々は神仏を尊び謙譲の美徳を忘れざること

  • We will follow our religious principles and never forget the true virtue of humility.
  • 私達は人間の力の及ばない自然や宇宙の摂理を重んじ、神や仏を敬い、相手の事を大切にし、自分を謙遜する態度を忘れてはならない。

一、吾々は知性と体力とを向上させ事に臨んで過たざること

  • We will look up wards to wisdom and strength, not seeking other desires.
  • 私達は空手の修行によって、ただ肉体を鍛えさえすればいいというものではなく、知性と体力をともに向上させなければならない。それによってどんな状況でも焦らず、冷静に対処することが出来るようになるのである。

一、吾々は生涯の修行を空手の道に通じ極真の道を全うすること

  • All our lives, thought the discipline of Karate, we will seek to fulfill the true meaning of the Kyokushin way.
  • 武道として空手の修行は一生をかけて追い求めるものである。一生を通じて極意に一歩でも近づこうとする姿勢、それが極真空手の本義なのである。