教育の考え方

自分の価値をしり、生かす道を知る -不動心の境地と自然体の極み

学問や修練を通じて、自分がいかなる人間になるかを自分自身で決定し、それに基づく志を立てることがすべての出発であり、その正しい道に導く事が教育の原点です。
そして、肉体もさることながら、自分自身の魂を大切にできる人間になることが、成長の第一歩です。
黙想や学問など、正しく自分の魂を、自分自身で見つめる時間が重要です。 ※拳禅一如の「禅」にあたる
肉体は大きくなっても、魂が成長しなければ喜びはありません。
きれやすく感情的であったり、他者よりも自分を当然のように平気で優先できる人は、肉体的には何歳になろうとも魂は全く成長していない子供のままです。

自己中心的に生きる人は、一見、自分自身を大切にしているようですが、実際は自分のことはどうでもいいと思っている場合が多いようです。
自分自身を大切にしているのではなくて、自分の立場や所有物に固執しているにすぎないことを知らないからです。
自分を大切にしている心豊かな人は、相手を傷つけたり、いじめたり、奪ったりはしません。その行為は結局、自分自身を傷つけると感じるからです。
しかし、心貧しき人は自分自身をかえりみないため、自分の立場や所有物を失うことは恐れますが、自分自身が傷ついていることは感知できません。
そのため、自己中心的に生きることが苦痛と感じられず道を誤ってしまいます。

自分を生かす道の第一歩は、自分の魂を見つめ人としての道理を探り、正義や道理にかなった事を喜びと感じ、悪や過ちを不快に思える心を育てる事です。

●教育者として
礼儀作法などの形も必要なのは当然ですが、それ以上にこの内面を育てることが重要です。
可能であれば青少年期ひいては幼年期にできるだけ早く育てられれば良いと思います。
そのためには、躾をかす以上に深い愛情を、叱る以上に広い理解を、関心を持ちつつも干渉はせず、今現在のその子を正すのではなく、10年後20年後の将来を良くする地道な努力が教育者(親や先生など)には必要です。
教育者は、100回でわから無ければ101回目も丁寧に教え、たった1つの言葉を伝えるために1年を要してもかまわないと覚悟できる器量が必要です。
怒鳴ったり、手を挙げたり、いくら強要しても、その言葉は記憶に残っても心には残リません。
教育者には、恐怖が必要なのではなく威厳が必要なのであり、甘やかすのではなく甘えさせる愛情が必要です。

ご父兄の方で、挨拶が良くできるようなった、靴をそろえ服をたためるようになったなど、即効性のある結果に期待される方がいらっしゃいます。
確かに礼儀作法は重要ですので一理あります。
しかし、形を優先してしまうことでマイナスになることも、しばしばあります。厳しい先生やコーチの前で礼儀正しくしている子供が、みられていない裏でいじめなどを行っていることもあります。いじめの加害者の親が、うちの子に限ってというのは、親の愛情からくる欲目もあるでしょうが、厳しい親の前ではいい子であるケースが多いのです。
ですから注目していただきたいのは、良いことを喜びとして悪いことを痛みとして感じる心が育っているか、否かです。
極真空手はその事にも留意し、礼儀作法はもちろんの事、その魂の育成にこそ力を注ぎたいと考えています。故に、ご父兄と道場との連携が必要になるのです。

黙想や学問など、自分自身を見つめる時間を大切にしている。
人としての道理を常に考察する。
自分は、どのような人間になるのか(職業ではなく)自分自身で決定できる意志を持つ。(志を持つ)
義や善を喜びと感じ、道理から外れたことに痛みや不快感を感じる。
自分を含め、すべての存在には価値があり、不要なものはないことを知る。
得意・不得意の両方をふくめ、自分を生かす道を探る。
自分自身の生い立ちや生まれなどの運命を受け入れる。(運命に責任を押しつけて逃げない)
外界にとらわれて心を動かさない不動心をもつ。
あらゆる調和による自然体を極める。

空手道の目指す、不動心の境地と自然体の極みが、自分を生かす最良の道です。

追記:昨今の青少年教育で感じますが、子供が悪事を行った場合、見つかってしまった事は後悔しても、悪いことをしたと感じられない子が多いことは恐ろしいことです。
また、なぜ問題なのかを教えても言葉の意味をあまりにも知らないことに驚きます。
家族の対話が薄れて来ているせいか、また会話があっても本質的な会話もなされているかをとわなければなりません。